べらぼうに高い時計やバッグ、はたまた高級車は人を不快にしてしまうのか?
ん~、どうなんでしょうか?これは難しい問題です。なぜなら、自分のお金で買ったものに対して、「放っておいてくれ!」「勝手に言ってろ!」と思うかも知れないけれど、SNSでは高級時計や高級ブランド品をを見た人が、やいのやいの言ってくるときがあるからです。
別に私を含めて誰かを不快にしたいわけではありませんが、「高価なモノは他人に否定的な意味をもたらすのか?」ということを考えてみました。妬みとなるその根源は何なのか?そんな意味があるのかないのかわからないことを真剣に考えてみました。
実は、文明国では同じような思いを持っている人が多いらしい。アメリカやヨーロッパの高級時計が売られている先進国の国々の人達は、(何をもって “普通” と言うのかは難しいですが)基本的に “普通” の行動に関しては非常に平等に受け入れるのが一般的だといいます。しかし、同じレベルの人達同士なら問題なくても、世間一般では、高価な時計や車などのステータスシンボルが広く称賛されることはそれほど多くありません。アイドルや有名人であっても、何よりもまず、どれだけ「普通なのか」、「身近に感じれるか」で判断される節が昨今ある。昔は “スター” という手の届かない異世界の人たちとの線引きがあり、その人達がたとえ高価なモノを身に着けていても、「当然」と受け入れている時代があった。

昭和のスター軍団
さてここで、ちょっと考えてみたい。妬みは、他人が優れた物や特性を持っていることによる劣等感や敵対心を伴う心の痛みです。私達が物の評価をする場合、絶対的な価値よりも他の物との比較によって行うことが多く、私達の自己評価も自己に関係した特性や関心を持った人間との比較によってなされることが多いと思われる。自己にとって関連や関心の高い優れた物を他人が所有していると妬みが生じ、他人の優れたものを手に入れたいとか、他人が持っている優れた物を失えばいいのにと思うことがあります。しかしながら、他人が持っている物や特性が非常に優れていても自己にとって関連や関心のないものであれば、それほど妬みは生じない。また、他人に不幸が起きた時、我々は通常は同情しますが、他人が自己にとって重要な優れた物を所有し妬みの対象になった場合、その所有者に不幸が起きると “他人の不幸は蜜の味” というある種の喜びすら感じてしまうのです。人って残酷なもんですね。
で、なぜ自分よりも数倍収入があるであろう売れっこ芸能人や資産を持っている人に対してまで、嫉妬をするのだろうか?自分が同等の収入で、自分が持っていない時計や車を持っている場合、嫉妬をしてしまう気はわかるが、そもそもステージが違うのだ。「(自分よりも)若いクセに」とか、自分と比較しての劣等感がそうさせる。「社会的地位の高い人」を見ると、自分が見下されているという感覚に陥る。しかしほんとうに自分を見下しているのは、自分の中にいる自分自身じゃないでしょうか。
人はみんな、自分の中に「もうひとりの自分」を隠している。この「もうひとりの自分」は、自分自身の全てを知っており、その上で「無能、愚か者、臆病者」と厳しく批判をする。実際のところ、他人に何かを言われても傷つくことなんてない。本当の自分のことなんてわかっていないからだ。でも、「もうひとりの自分」からの批判にはとても深く傷つく。僕にもそれはいる。でもその「もうひとりの自分」からの批判は真っ当なものなのか。ただ傷つけるだけの批判が。
我々には、自分自身を育てる義務がある。親が子供を育てるように自分自身も。親は子供を無条件に愛し、見返りを求めないものだろう。「いい人生を送ってもらいたい。」本当は、ただそれだけのはず。全てを肯定してくれた親から離れた後は、「もうひとりの自分」以外にその役割を果たせない。その「もうひとりの自分」が、欠陥も過ちも含めて、自分自身を無条件に愛し、認め、肯定する。「もうひとりの自分」を、自分自身が育てて行かないといけない。
そうすることによって、高価な時計や車を持っている他人と対峙した時も、羨ましさは生まれても、歪んだ嫉妬は生まれない。もちろん羨ましさをバネに、ハングリーな気持ちで自分を奮い立たせるもの大事なんですけどね。
コメント